ジャパンカップの過去を振り返ると、日本競馬の進化が見えてくる?!

競馬 G1 過去

海外から強豪たちが来日し、日本の馬たちと対決するジャパンカップが創設されたのは、1981年のことでした。

当時は創設の目的として、「世界に通用する馬作り」というものが掲げられていました。その目的の通り、ジャパンカップというレースの過去を振り返ると、日本の競馬界が進化・発展してきた過程が見えてきます。

今回は、そんなジャパンカップの過去を振り返ります。創設時と現在とでは、レースの持つ意味が大きく変化していることに気付かされます。

1:ジャパンカップで世界を知る

ジャパンカップでは、普段は目にすることのない、海外の人馬たちが来日し、その実力に日本の競馬ファンが驚愕することが何度もありました。

競馬ファンだけではありません。調教師や騎手など、競馬関係者も彼らから「世界」を知り、多くのことを学びました。

そんな海外の人馬たちによる活躍が教えてくれた「世界」について、今回は触れてみたいと思います。

1-1:1989年優勝馬ホーリックスが教えてくれた「世界」

オグリキャップが競馬を始めるきっかけとなった、という人は非常に多いですが、そんなオグリ世代の人たちが伝説と評するのが、この1989年のジャパンカップです。

ニュージーランド調教馬で、オーストラリアでのG1を連勝中だった女傑ホーリックスと、前の週にマイルチャンピオンシップを勝利して2つめのG1タイトルを獲得したオグリキャップが、最後の直線で馬体を併せ、激しい叩き合いを演じました。

結果はクビ差でホーリックスに軍配が上がります。オグリキャップでも世界の壁を越えることはできないのか、と東京競馬場内にはため息が広がりました。

しかしその後、掲示板に表示された走破タイム、2分22秒2を見て、驚かない人はいませんでした。

芝2400メートル戦における世界レコードタイムだったのです。

この日、日本の競馬ファンは世界でもトップレベルの戦いを目撃することになったのです。

1-2:名手の技に脱帽!!1996年優勝馬シングスピール

ジャパンカップには、世界でも名高い名馬と共に、世界を代表する名手も来日します。

ランフランコ・デットーリ騎手も、そんな世界的な名手の一人です。

この年は、イギリスのシングスピールとのコンビで来日しました。

レースは、前走の秋華賞を制してG1馬の仲間入りを果たした、日本のファビラスラフインに、ランフランコ・デットーリ騎手とシングスピールのコンビが後方から襲いかかり、この2頭が並んでゴール板を通過します。

接戦で写真判定となったこのレースは、ハナ差でシングスピールに軍配が上がりました。

名手と名馬のコンビによる優勝に、2着に敗れたファビラスラフインの手綱を取っていた松永幹夫騎手(現調教師)がレース後に言い放ったコメントが、あまりにも有名です。

「誰だ?デットーリなんか呼んできた奴は?」

この日のファビラスラフインは、G1馬となった秋華賞を上回る出来で、レースも最高の走りだったそうです。

しかし、名手ランフランコ・デットーリ騎手はシングスピールで、そのファビラスラフインの野望をあっさりと打ち砕いてしまいました。

日本の競馬ファンは、この時のランフランコ・デットーリ騎手に「世界」を改めて教えられることになったのでした。

1-3:日本馬に有利な舞台での激走!!2002年優勝馬ファルブラヴ

ランフランコ・デットーリ騎手が来日して騎乗したジャパンカップと言えば、もう1つ忘れてはならないレースがあります。

この2002年のジャパンカップは、例年とは異なる条件で行われました。

この年、本来ならジャパンカップの舞台となる東京競馬場がスタンド改修工事の為に使用できず、中山競馬場での実施となりました。

距離も2400メートルから2200メートルに変更されて行われたのです。

海外から来日した馬たちの関係者たちは皆、中山競馬場のコースを見て顔をしかめました。

東京競馬場と違い、中山競馬場はコーナーがきつく、小回りで、コースの幅も狭いのが特徴です。

東京競馬場のように、広くて、直線が長いコースをイメージして来日した海外の関係者は、そのギャップに悩まされることになります。

海外の関係者が中山競馬場を見て抱いた反応は、日本のメディアでも紹介されました。

多くのファンは、これなら日本勢が有利と考え、シンボリクリスエス、ナリタトップロード、ジャングルポケットといった日本調教馬が上位人気を占める形でレースが始まります。

ところが、最後の直線で激しい叩き合いを演じたのは、イタリアのファルブラヴと、アメリカのサラファンという、外国馬2頭でした。

ファルブラヴは9番人気、サラファンは11番人気と、全くの人気薄でしたが、例年と異なるコースで外国馬には不向き、という多くのファンの評価は、根底から覆されることになったのです。

レースはハナ差でファルブラヴが勝利しましたが、そのファルブラヴの手綱を取っていたのが、ランフランコ・デットーリ騎手でした。

小回りで、コースが狭い中山競馬場も、このコンビには全く問題ありませんでした。

前日のジャパンカップダートでも、ランフランコ・デットーリ騎手はイーグルカフェの手綱を取って勝利に導いています。

日本の競馬ファンはこの2日間、ランフランコ・デットーリ騎手という、世界的な名手の技に酔いしれることになったのでした。

2:ジャパンカップの歴史は、日本競馬が進化する歴史

過去のジャパンカップを振り返ると、海外からやってきた名馬・名手の活躍もありましたが、そんな海外の人馬に刺激を受けた日本の競馬関係者が活躍したシーンも数多く存在します。

「世界に通用する馬作り」という創設時の目的は果たされた、と言っても過言ではありません。

そんな日本調教馬たちの活躍したシーンを紹介します。

2-1:1992年優勝馬トウカイテイオーの勝利が持つ特別な意味

ジャパンカップというレースがひとつの転機を迎えたのは、この1992年でした。

この年、ジャパンカップは国際セリ名簿基準委員会(ICSC)から、国際G1競走として認定されたのです。

これは、ジャパンカップ優勝馬が引退後、種牡馬として、あるいは繁殖牝馬としての評価がそれまで以上に高くなることを意味します。

つまり、世界中のホースマン達が目標とするレースになったのでした。

来日した外国馬の顔ぶれも、イギリスで2冠を獲得した牝馬ユーザーフレンドリーや、アーリントンミリオン優勝馬ディアドクターなど、これまでにない強豪たちばかりでした。

強豪たちの参戦に驚き、そして喜んだ日本の競馬ファンたちは、この外国馬たちを1~4番人気に評価します。

しかし、レースはそんな評価を大きく覆されるものとなったのです。

優勝したのは、そんな海外の強豪たちではなく、人気を外国馬に譲ることとなった日本の2冠馬トウカイテイオーだったのです。

トウカイテイオーは2番人気に支持されていた、オーストラリアのナチュラリズムをハナ差で振り切って勝利。

場内は大歓声に包まれ、トウカイテイオーの手綱を取った岡部幸雄騎手(当時)は、珍しく馬上でガッツポーズし、喜びを表現します。

ジャパンカップは世界から注目を集めるレースとなったばかりではなく、日本で走る競走馬たちへの注目を集めるきっかけも作ることになったのです。

2-2:世界が驚愕!!2018年優勝馬アーモンドアイ

1989年にホーリックスがジャパンカップで作った世界レコード2分22秒2は、2005年にイギリスのアルカセットがジャパンカップで勝利した際に塗り替えられました(2分22秒1)。

しかし、そのアルカセットの世界レコードが2018年に日本調教馬によって破られます。

世界レコードを更新したのは、アーモンドアイでした。

この年、牝馬3冠(桜花賞、オークス、秋華賞)を制したアーモンドアイは単勝オッズ1.4倍という、断然の1番人気という評価を受けていました。

そのアーモンドアイがこのジャパンカップを勝つことについて、驚く人はいませんでした。

ところがその走破タイムに、世界中が驚愕します。

2分20秒6という、1秒を超える大幅な世界レコードタイム更新だったのです。

この世界レコードタイム更新は、アーモンドアイの世界的な評価を高めたことは言うまでもありません。

同時に、この世界レコードタイム更新により、ジャパンカップというレースは新たな局面に入ることになったのです。

2-3:複雑な想いも、日本競馬発展の証となった日!!2019年優勝馬スワーヴリチャード

この年のジャパンカップは、前代未聞の事態に見舞われます。

海外から参戦する外国馬が1頭もいなかったのです。

その理由や原因について、多くの関係者や評論家から様々な意見が上がりました。

しかし、前年のアーモンドアイが叩き出した走破タイムが速すぎたこともその理由でしょう。

力を要し、ある程度は時計がかかる海外の競馬場と、速いタイムでの決着となる日本の競馬場は、全く異質な存在でした。

その為に、海外の競馬関係者たちは、ジャパンカップというレースを敬遠するようになってしまったのです。

それでも、ジャパンカップはまだ日本の競馬関係者やファンに「世界」を見せてくれる舞台であることに、変わりはありませんでした。

この年のジャパンカップを優勝したスワーヴリチャードの手綱を取っていたのは、イギリスを拠点に活躍する若き天才、オイシン・マーフィー騎手でした。

オイシン・マーフィー騎手にとって、このジャパンカップでの勝利は、日本で初めてのG1勝利でした。

アイルランド生まれで、主にイギリスで活躍するオイシン・マーフィー騎手ですが、この勝利により、日本での注目度も高まりました。

ジャパンカップが行われる11月下旬は、海外のトップジョッキーたちが短期免許で数多く来日する時期でもあります。

オイシン・マーフィー騎手も、短期免許を取得して海外からやってきたトップジョッキーのひとりです。

強い馬が来日しなくても、世界的な名手たちが日本の馬でジャパンカップに挑むことで、日本の関係者やファンは、ジャパンカップというレースから学ぶことがたくさん残っていることを、再認識させられた瞬間でした。

3:ジャパンカップの未来を考える

「世界に通用する馬作り」を目的にスタートしたジャパンカップですが、外国馬の優勝は2005年のアルカセット以降はありません。

以前のように、海外から強豪がジャパンカップに参戦しなくなりました。こうした事態は、JRAにとって大きな課題となっています。

果たして、ジャパンカップは今後、どんなレースになっていくのでしょうか。

そして、どう変化しなければならないのでしょうか。

ジャパンカップの未来について少々考えてみたいと思います。

3-1:強力な外国馬が不参加の理由

やはり、アーモンドアイが2018年に叩き出した世界レコードタイムが、海外の競馬関係者を悩ませる材料となっていることは間違いありません。

速いタイムでのレースを経験した後、出走馬にどんな影響が出るのか、管理する陣営としては注視する必要があるのです。

また「時計が速すぎる」ということが、単純に「勝負にならない」という判断となり、ジャパンカップを敬遠する海外の関係者も増えています。

日本調教馬のレベルが上がったことも、強力な外国馬が参戦しなくなった理由のひとつとなっているのです。

ジャパンカップに強い外国馬が参戦しなくなった理由として考えられるものがもうひとつあります。

2010年のジャパンカップ前のことでした。

3日前に東京競馬場で行われた、ジャパンカップに参戦する外国馬の公開調教で、ある外国馬が注目を集めました。

その馬の名はスノーフェアリー。

この年のエリザベス女王杯を制した牝馬です。

エリザベス女王杯の後、スノーフェアリーの陣営はジャパンカップに登録があった為、京都競馬場から東京競馬場に移動して調整が続けられました。

しかし、スノーフェアリーはこの年のジャパンカップには出走していません。

スノーフェアリーはジャパンカップを回避して、香港のシャティン競馬場に移動し、香港カップを優勝します。

つまり、スノーフェアリーの陣営はジャパンカップではなく、香港国際競走を選択したのです。

ジャパンカップと近い時期に行われる香港国際競走と、有力馬の奪い合いとなり、ジャパンカップはその奪い合いに敗れてしまったのです。

この香港国際競走との時期的な兼ね合いも、ジャパンカップにおける大きな課題となっています。

3-2:世界を教えてくれるのは、馬だけではない

2013年ジェンティルドンナ(ライアン・ムーア騎手)、2014年エピファネイア(クリストフ・スミヨン騎手)、2017年シュヴァルグラン(ヒュー・ボウマン騎手)、2018年・2020年アーモンドアイ(クリストフ・ルメール騎手)。

近10年のジャパンカップにおいて、外国人騎手が騎乗して勝利した日本調教馬は5頭もいます。

外国馬にとってはあまり魅力的ではないジャパンカップですが、外国人騎手にとっては、魅力的なレースとなっています。

ジャパンカップで[世界」を教えてくれるのは、外国馬ばかりではありません。

外国人騎手もジャパンカップで「世界」を教えてくれる存在と考えていいでしょう。

政情不安により、香港でのレース騎乗に二の足を踏む外国人騎手にとっても、日本競馬は自国のオフシーズン時に目指すべき舞台となっています。

馬が来日しなくても、世界的な名手が集まる舞台としてのジャパンカップに注目するべきかもしれません。

まとめ

フランスの凱旋門賞や、アメリカのブリーダーズカップ各競走に遠征して出走する日本調教馬が増えました。

日本の競馬関係者がこうした舞台を目指すようになったきっかけとして、ジャパンカップは大きな役割を果たしてきました。

ジャパンカップ創設における大きな目標だった「世界に通用する馬作り」は、その意味では達成されつつあると考えていいでしょう。

ジャパンカップの歴史は、日本競馬が進化する歴史そのものなのです。