どんなに時代が変化してても、どんなに競馬界が変化しても、日本で最高峰のレースが天皇賞であることに変わりはありません。
特に、京都競馬場の芝3200メートル戦で争われる天皇賞・春は、様々な時代の波に揉まれながらも、その伝統を維持し続けています。
今回は、その日本競馬伝統のG1レース、天皇賞・春を振り返りながら、日本競馬界の変化を考えてみたいと思います。
1:名勝負数え唄~天皇賞・春編~
天皇賞・春で出走馬たちが走る3200メートルという距離は、日本で行われる平地G1レースの中でも、最も長いものになります。
天皇賞・春の歴史を紐解くと、長距離戦であることが理由で名勝負となったケースがいくつかあることに気付かされます。
そんな天皇賞・春で繰り広げられた名勝負を振り返ってみましょう。
1-1:あのアニメでも語られた2強対決~1992年優勝馬メジロマックイーン~
競馬を知らない人たちの間でも人気となり、流行語大賞にノミネートされるほどのブームとなった、アニメ「ウマ娘プリティーダービー」に、ライバルの2人がレース前の記者会見で、こんな舌戦を繰り広げるシーンが描かれています。
「地の果てまで走れそうです」
「そっちが地の果てなら、こっちは天まで昇れますよ」
このやり取りは単なる物語上のものではなく、1992年の天皇賞・春でライバルと呼ばれた2頭の手綱を取る騎手同士が実際に語ったものでした。
前者の「地の果てまで走れそうです」はトウカイテイオーの手綱を取る岡部幸雄騎手(当時)によって、後者の「天まで昇れますよ」はメジロマックイーンに乗る武豊騎手によってそれぞれ語られました。
トウカイテイオーは前年の日本ダービーを無敗のまま優勝し、故障による長期休養明けの大阪杯も快勝。
無敗記録を伸ばしながら、天皇賞・春に駒を進めたのでした。
一方、トウカイテイオーより1歳上のメジロマックイーンは前年の天皇賞・春を優勝し、史上最強と評される存在でした。
連覇を狙い、このレースに挑みます。
結果はメジロマックイーンが勝利して連覇達成。
トウカイテイオーは、長距離戦への適性で見劣り、5着に敗れました。
レース後、メジロマックイーンも、トウカイテイオーも、それぞれ故障が判明し、その後の予定を変更して、休養を余儀なくされることとなりました。
ライバル対決は、想像を絶する激しさだったのです。
1-2:1995年優勝馬ライスシャワーの石碑が京都競馬場にある理由
天皇賞・春の舞台である、京都競馬場の片隅にライスシャワーの石碑があります。
ライスシャワーが獲得したG1タイトルは、1992年の菊花賞、そして1993年と1995年の天皇賞・春の3つです。
このG1・3勝はいずれも京都競馬場で行われたレースでした。
美浦トレーニングセンター所属の飯塚好次調教師(当時)に管理されていた関東馬だったライスシャワーですが、最も得意とする舞台は京都競馬場の長距離戦でした。
1992年の菊花賞ではミホノブルボン、1993年の天皇賞・春ではメジロマックイーンという、レース前は絶対的な存在と言われた馬を徹底的にマークし、最後の直線で交わして勝利を奪う、という勝ちっぷりを見せたライスシャワーですが、メジロマックイーンに勝った後、スランプに陥ります。
スランプに陥った最大の理由は、得意とする京都での長距離戦が他になかった点に尽きるでしょう。
他の競馬場でのレースや、短い距離でのレースにおいて、ライスシャワーは苦戦を続けます。
そして本来なら連覇がかかる1994年の天皇賞・春は故障で出走できませんでした。
もっともこの年の天皇賞・春は、京都競馬場の改修工事に伴い、阪神競馬場で行われました。
そもそも、ライスシャワーが得意とする舞台ではなかったのです。
2年もの間、勝ち星から見放される中で行われた1995年の天皇賞・春で、ライスシャワーはある奇策に出ます。
京都競馬場の3コーナーにある坂の手前で先頭に立ち、ロングスパートをかけたのです。
もともとスタミナに絶対的な自信を持っていたライスシャワーは、4コーナーから最後の直線に入っても、脚色は衰えることはありませんでした。
ゴール手前でステージチャンプが猛然と追い込みますが、ハナ差で凌いで2年ぶりの勝ち星を挙げます。
ライスシャワーは京都の長距離戦では、絶対的な強さを持つ馬だったのです。
こうして復活を果たしたライスシャワーですが、次走の宝塚記念で悲劇が待ち受けていました。
この年の宝塚記念は、阪神淡路大震災の影響により、舞台を京都競馬場に変えて行われたのですが、そのレース中に故障し、安楽死処分という最悪の事態に。
大好きな京都競馬場で短い一生を終えることになったのです。
前述したライスシャワーの石碑ができたのは、その翌年のことでした。
京都競馬場の歴史を語る時、その京都を得意とした競走馬の名前が紹介されることがありますが、ライスシャワーはその代表格と言っても過言ではありません。
1-3:まだ主役の座は譲らない!!~1997年優勝馬マヤノトップガン~
この年の優勝馬マヤノトップガンですが、前年にもこのレースに出走していましたが、5着に敗れていました。
当時は、大激戦となった阪神大賞典(2着)に続くナリタブライアンとの対決で注目を集めていたのですが、そのナリタブライアンに再び先着を許してしまったのです。
しかも、その前年の覇者はナリタブライアンではなく、関東からの刺客サクラローレルでした。
マヤノトップガンはこの敗戦により、主役の座を奪われることになります。
そして迎えた翌1997年の天皇賞・春は、マヤノトップガンにとってリベンジの場となりました。
かつては1995年の有馬記念で逃げ切り勝ちを決めたこともあるマヤノトップガンですが、この日は中団よりやや後ろのポジションでレースを進め、最後の直線で馬場の中央を猛然と追い込みます。
そして、前年は同じ場所で交わされたサクラローレルを、逆に外から交わして先頭に立ち、そのままゴール板を通過したのです。
リベンジを果たし、主役の座を取り返した瞬間でした。
マヤノトップガンが獲得したG1タイトルは、1995年の菊花賞と有馬記念、1996年の宝塚記念、そしてこの1997年の天皇賞・春の4つです。
時には逃げ、時には後方から追い込みという変幻自在な戦法でファンを魅了した名馬として知られています。
2:大波乱となった天皇賞・春
かつては実力馬同士の力比べ、という印象が強かった天皇賞・春ですが、その代わりに人気馬同士の決着となり、馬券としての面白さに欠ける、という指摘もありました。
しかし、近年の天皇賞・春はその傾向が大きく変化していて、単勝万馬券が出現する年もあります。
波乱となった天皇賞・春を振り返り、その原因を探ってみたいと思います。
2-1:2003年優勝馬ヒシミラクルはどうして人気がなかったのか?
京都競馬場で行われる長距離戦のG1レースと言えば、この天皇賞・春の他に、3歳3冠路線最終戦の菊花賞もあります。
3000メートル戦で争われる菊花賞を勝つ馬は、3200メートル戦の天皇賞・春でも注目を集める存在になるのが普通です。
2003年の天皇賞・春を優勝したヒシミラクルも、前年2002年の菊花賞馬です。
ところが、ヒシミラクルは菊花賞馬なのに、天皇賞・春でも7番人気という低評価でした。
理由は2つあります。
まず、菊花賞でも10番人気という低評価で、当時はその勝利をフロック視されていました。
そして、その菊花賞の後、有馬記念で11着、阪神大賞典で12着、大阪杯で7着と、掲示板に載ることができないレースが続いていました。
その為、菊花賞馬と言えども、天皇賞・春で競馬ファンの信頼を集めることができなかったのです。
ヒシミラクルの勝利は、そんな低評価を覆すものでした。
京都で行われる長距離戦で、本番のG1となれば、本来の実力を発揮できる馬だったのかもしれません。
2-2:大逃走劇~2004年優勝馬イングランディーレ~
競馬の格言に「長距離の逃げ馬、短距離の差し馬」というものがあります。
ゆったりとしたペースで前半が進むことが多い長距離戦は、逃げる馬もマイペースである為、後半に入ってもスタミナが温存されて脚色が衰えず、逃げ残ってしまうことがよくあります。
この2004年の天皇賞・春は、この格言が当てはまるレースでした。
10番人気の伏兵、イングランディーレは、スタートから後続を大きく突き放して逃げる展開となります。
後続の馬たちは、長距離戦でペース配分を考えながらのレースの為、逃げるイングランディーレに対するマークが甘くなってしまったのです。
イングランディーレが楽な手応えのまま、4コーナーから最後の直線に入っていることに後続の人馬たちが気づいた時にはもう手遅れでした。
なんと、7馬身という大きな差をつけたまま、イングランディーレは後続を完封し、見事な大逃亡劇を見せたのです。
単勝の払戻金は7,100円。
この結果に、京都競馬場内は大きな溜息に包まれてしまったのでした。
2-3:単勝万馬券出現~2012年優勝馬ビートブラック~
前年2011年の宝塚記念で2着に入った実績はありましたが、重賞で馬券圏内に入ったのはこの1回しかありませんでした。
そんな馬でしたから、18頭立ての14番人気という低評価はやむを得ないものでした。
しかし、その伏兵馬ビートブラックが天皇賞・春で大仕事を見せます。
3コーナー手前からロングスパートをかけると、そのまま後続を置き去りにして、先頭のまま、ゴール板を通過してしまったのです。
単勝の払戻金は15,960円。
単勝万馬券が出現してしまいました。
ビートブラックはミスキャスト産駒でした。
ミスキャストはサンデーサイレンスを父に持つ馬でしたが、現役時代に重賞勝ちがなかった馬です。
そんな地味な血統だったことも、注目を集めにくい理由のひとつだったのでしょう。
また、手綱を取っていた石橋脩騎手が、これまでG1勝利がなかったことも、ビートブラックが低評価だった要因でした。
しかし、ゲートが開けば、人気は関係がないことを、多くの競馬ファンは石橋脩騎手とビートブラックから学んだ瞬間でした。
3:天皇賞・春の傾向
競馬歴の長い人ほど、天皇賞・春というG1レースについて、最も強い馬が勝つレース、というイメージを持っています。
しかし、今の天皇賞・春はそんなレースと言えるでしょうか?
レース傾向を分析してみたいと思います。
3-1:近年は波乱が増加
前述したイングランディーレやビートブラックだけではなく、2005年に優勝したスズカマンボや、2009年優勝馬マイネルキッツも、10番人気以下での勝利でした。
2000年以降、10番人気以下の馬が4頭勝利しています。
かつては考えられない傾向でした。
競走馬を評価するポイントとして、長距離戦で必要とされるスタミナより、短距離戦で求められるスピードが重視されるのが、近年の競馬界におけるトレンドです。
長距離戦である天皇賞・春のようなレースに適性がある競走馬が少なくなっていることが、波乱が多くなった理由と言えるでしょう。
3-2:リピーター出現率が高いレース
かつて、春秋の天皇賞は勝ち抜き制が採用されていました。
一度、天皇賞を勝った馬が、再び天皇賞に出走することはできなかったのです。
この勝ち抜き制は1981年に廃止されます。
以降、天皇賞・春の勝ち馬を見ると、メジロマックイーン(1991年、1992年)、ライスシャワー(1993年、1995年)、テイエムオペラオー(2000年、2001年)、キタサンブラック(2016年、2017年)、フィエールマン(2019年、2020年)と、2度優勝しているケースが目立ちます。
天皇賞・春はリピーターが活躍するレースでもあるのです。
馬券検討をする際には、覚えておくべき傾向ではないでしょうか。
但し、3度勝った馬は出現していません。
メジロマックイーンが1993年に3連覇に挑みましたが、ライスシャワーに敗れました。
この傾向も、馬券を購入する際には、覚えておくべきでしょう。
まとめ
スピード指向が強い近年の競馬界において、長距離戦の天皇賞・春はやや時代に取り残されたレースであるようにも思えます。
それでも、1着賞金1億5000万円という、ホースマンにとって目標となるG1レースのひとつであることに変わりはありません。
騎手同士の駆け引きなど、長距離戦ならではの面白さもあります。
また、波乱になるケースが増えたことで、馬券を購入する面白さも増しています。
そう考えると、次の天皇賞・春が待ち遠しくなりますね。