皐月賞から日本ダービー、そして菊花賞。
菊花賞は牡馬クラシック3冠戦線における最終戦です。
過去には3冠馬が誕生するという、歴史的な瞬間もありました。
皐月賞でも、日本ダービーでも見ることができない光景が菊花賞にはあります。
そんな菊花賞の過去を振り返りましょう!!
1:3冠馬が誕生した日
まずは菊花賞の日だけに訪れる、3冠馬誕生の瞬間をご紹介しましょう。
当日の京都競馬場は、他のG1レースでは感じることがない、独特の雰囲気に包まれます。
それだけ、日本競馬史における特別な1日なのです。
それぞれの特別な1日について、詳しく語ってみたいと思います。
1-1:1994年優勝馬ナリタブライアンにあった不安材料
この日の主役、ナリタブライアンにとって、風向きは決して良いものではありませんでした。
前の週に行われた天皇賞・秋(当時の菊花賞は11月実施で、天皇賞・秋の翌週でした)で、半兄のビワハヤヒデが断然の1番人気を裏切り、敗れたのです。
そしてレース後に故障が判明し、そのまま引退ということになってしまいました。
更にナリタブライアン自身にも不安材料がありました。
前哨戦の京都新聞杯(当時は秋の実施で、菊花賞のトライアルレースでした)で、スターマンに敗れる波乱があったのです。
皐月賞、そして日本ダービーを圧倒的な強さで勝利したのですが、菊花賞はそんなに甘くないかもしれない、と想像したファンもいたに違いありません。
それでもナリタブライアンは、単勝オッズ1.7倍という断然の1番人気に支持され、その評価に応える形で最後の直線で弾け、後続を大きく突き放します。
この日の京都競馬場は雨で、馬場状態の発表は稍重でした。
トレードマークである白いシャドーロールは、泥で汚れてしまいました。
ナリタブライアンは泥まみれになりながら、強さをアピールしつつ、ゴール板を通過します。
シンボリルドルフ以来となる、10年ぶりに3冠馬が誕生した瞬間でした。
2着馬以下との差は、皐月賞では3馬身1/2、日本ダービーでは5馬身、そしてこの菊花賞では7馬身に広がっていました。
この圧勝ぶりも、ナリタブライアンが持つ桁違いの強さを証明するものとして、後にまで語られるものだったのです。
レース前にあった不安材料は全て吹き飛び、他の馬を本命視していた穴党ファンも含めて、3冠馬誕生の瞬間に拍手を送ったのでした。
1-2:日本中の視線が京都競馬場に集中~2005年優勝馬ディープインパクト~
この日、京都競馬場に来場したファンは13万6701名。
これは菊花賞史上最多記録でした。
京都競馬場の最寄り駅である、京阪・淀駅から競馬場までの道も人で溢れ、場内は昼食を買いに行くのも困難なほどの混雑ぶりでした。
当日、来場したファンに無料で配布されるレーシングプログラムも普段とは異なる仕様で、普段は東西それぞれ別の編成となっている民放テレビの競馬中継も同一内容の特別番組として放送されました。
全てが特別な1日だったのです。
そんなこれまで誰もが経験することがない独特の雰囲気の中、ディープインパクトだけは全く普段と変わることがない走りで後続を突き放し、ゴール板を先頭で駆け抜けます。
7戦7勝。
無敗での3冠達成でした。
その瞬間、コースの内側に密かに準備されていたアドバルーンが上がり、爆竹が鳴り響きます。
ディープインパクトの3冠達成は、何もかもが異例な中でのものだったのです。
異例な事態はレースが終わった後も続きました。
淀駅では入場規制がかかり、帰りの電車に乗るのも一苦労だったのです。
そんな異例な事だらけの1日でしたが、唯一変わらなかったのは、ディープインパクトの強さだけだったのかもしれません。
1-3:混乱の中で誕生したニューヒーロー~2011年優勝馬オルフェーヴル~
2011年は日本中が混乱に陥った1年でした。
3月に東日本大震災が発生し、多くの人の命が奪われました。
そして、この震災が原因で原発事故が発生し、多くの人が避難生活を余儀なくされました。
競馬界も大きな影響を受けました。
福島競馬場はスタンド、コースともに大きな被害に遭い、更に原発事故に伴う除染にも取り組まなければならない事態となりました。
そして、中山競馬場も被害を受け、東日本地区の競馬開催は1ヶ月間ストップすることになったのです。
皐月賞が行われる中山競馬場は震災による被害の為、予定よりも1週遅れで東京競馬場での実施となりました。
その東京競馬場での皐月賞を勝ったオルフェーヴルが、日本ダービーも勝利し、菊花賞に挑みます。
オルフェーヴルの走りは、そんな暗い雰囲気を吹っ飛ばすほどの力強いものでした。
この3冠達成を決めた菊花賞のゴール前は手綱を抑えて、流す余裕さえ感じさせるものでした。
さらにレース後、オルフェーヴルは独特のお茶目さを見せて、場内のファンをほっこりとさせました。
鞍上の池添謙一騎手を振り落としたのです。
これは新馬戦を勝った後にもみせたイタズラでした。
もちろん、このイタズラを予期していた池添謙一騎手に怪我はありませんでした。
このイタズラは京都競馬場のファンもよく知っていて、場内には笑いも起きたいのです。
オルフェーヴルは震災で暗く沈んだ日本に勇気を与え、そして明るさを呼び込むサラブレッドだったのです。
1-4:2020年優勝馬コントレイルが克服したもの
2005年に3冠馬となったディープインパクトの産駒であるコントレイルが、親子2代での3冠達成を賭けて挑んだ菊花賞でした。
前哨戦となった神戸新聞杯を勝ち、無傷の6戦6勝で菊花賞に挑むことが決まった後、陣営は既に一部で指摘されていた、ある不安材料について、その不安を隠そうとはしませんでした。
コントレイルに3000メートルという距離は長過ぎるのではないか、という不安でした。
陣営も、手綱を取る福永祐一騎手も、その明らかな不安と戦う菊花賞だったのです。
馬券を買うファンも、その不安をどう考えるのか?が問われることになりました。
レースは、最後の直線で馬群から抜け出してきたコントレイルにアリストテレスが後方から猛然と襲いかかります。
3000メートルという距離への適性では、アリストテレスの方が明らかに上でした。
しかし、コントレイルはそのアリストテレスの猛追をクビ差で凌ぎ、父ディープインパクトと同様に、無敗のまま、3冠達成を果たします。
陣営も、福永祐一騎手も、そして馬券を買ったファンも「何とか持ち堪えてくれ!!」と祈りながら見たゴールの瞬間でした。
距離への不安を克服して掴んだ、3冠馬の称号でした。
2:最後の1冠は譲らない
菊花賞で勝利する馬は、皐月賞、日本ダービーを勝って、3冠を目指す馬ばかりではありません。
その皐月賞や日本ダービーで悔しい想いをした馬たちによるリベンジの場でもあるのです。
そのリベンジを菊花賞で果たした馬たちもご紹介しましょう。
2-1:もう銀メダルは要らない~1993年優勝馬ビワハヤヒデ~
皐月賞では、ナリタタイシンの末脚に屈して、クビ差で2着。
日本ダービーでは、先に抜け出したウイニングチケットを捕まえ切れず、1/2馬身差で2着。
ビワハヤヒデはどちらのレースも2着止まりでした。
決して大きな差を付けられた訳ではありません。
あと一歩が足りなかったのです。
ビワハヤヒデにとって、もう銀メダルは必要ありません。
前哨戦の神戸新聞杯を快勝し、菊花賞に駒を進めたビワハヤヒデは2周目の4コーナー手前で先頭に立ち、そのまま後続に5馬身差をつけて勝利します。
誰もが文句のつけようがない勝ちっぷりで、最後の1冠を手中に収めたのでした。
この年の牡馬クラシック3冠路線は、ナリタタイシン、ウイニングチケット、ビワハヤヒデという、早くから3強と評価されていた3頭が1冠ずつを分け合う形となりました。
但し、この菊花賞でウイニングチケットは距離に限界があったのか、3着に敗れます。
またナリタタイシンは17着と大敗しました。
菊花賞という舞台において、最も高い適性を示したのが、ビワハヤヒデだったのかもしれません。
2-2:ダービーの涙が菊の笑顔に変わった瞬間~1999年優勝馬ナリタトップロード~
話は、この年の皐月賞に遡ります。
最終追い切り後、ナリタトップロードの手綱を取る渡辺薫彦騎手(現調教師)は、報道陣を前にこんなコメントを残します。
「僕とトップロードのコンビネーションを見てください」
文字にすると、非常に頼もしいコメントのように思えます。
しかし、実際にはかき消えそうな小さな声で語られたものでした。
その顔からは、多くの報道陣を前にして、緊張している様子が伺えました。
G1レースへの騎乗経験はありましたが、G1でこんなに注目を集める馬に乗るのは初めてだったのです。
その皐月賞では、教科書通りに最後の直線で馬群から抜け出しますが、大外から猛然と追い込んできたテイエムオペラオーの末脚に屈して、3着という結果に終わります。
続く日本ダービーでは、仕掛けを我慢して、先に動いたテイエムオペラオーを最後の直線で交わしますが、更にその後ろで末脚を使うタイミングを図っていたアドマイヤベガにゴール手前で交わされて2着。
その日の競馬中継番組では、引き揚げてきた後、モニターテレビでレースを振り返る渡辺薫彦騎手の目が真っ赤になっている様子が映し出されました。
決して、間違った乗り方をしているのではありません。
相手が巧すぎるのです。
菊花賞は、その渡辺薫彦騎手にとって、リベンジの場となりました。
先に馬群から抜け出したナリタトップロードに、後方からテイエムオペラオーとラスカルスズカが迫ります。
3頭は横一線でゴールしますが、誰の目にもナリタトップロードがクビ一つ分、前に出ているのがわかります。
日本ダービーでの悔しさを全て晴らした瞬間でした。
レース後のインタビューに応じた渡辺薫彦騎手に涙はなく、喜びに溢れる表情をしていました。
初めてのG1勝利ですが、それまでにかなり悔しい想いを続けてきました。
悔し泣きが報われた瞬間でした。
3:本当に強い馬が勝つ菊花賞
皐月賞は最も速い馬が勝つ。
日本ダービーは最も運がいい馬が勝つ。
菊花賞は最も強い馬が勝つ。
古くから語られている格言ですが、果たして今の競馬界にも当てはまるでしょうか?
少し考えてみたいと思います。
3-1:3冠の価値
前述したレースのうち、2020年にコントレイルが菊花賞を勝って3冠馬となる少し前のことでした。
いや、正確には日本ダービーを勝って、2冠を達成した直後だったかもしれません。
一部でこんな声があったのです。
「コントレイルにとって、菊花賞の3000メートルは長すぎるから、菊花賞ではなく、フランスの凱旋門賞を目指した方がいいのに。」
今、日本のホースマン達にとって、凱旋門賞を勝利する、というのは、大きな目標となりつつあります。
その凱旋門賞は、斤量面で3歳馬に有利なレースだ、と近年は言われるようになりました。
距離は日本ダービーと同じ2400メートル戦です。
3000メートルという距離に不安があることは、陣営も、主戦の福永祐一騎手も理解していたことでしょう。
それでも、コントレイルの陣営は3000メートル戦の菊花賞を選択しました。
もちろん、海外遠征のリスクも踏まえた上での判断だったのでしょうが、それでも凱旋門賞よりも菊花賞を重要視したのです。
そこには3冠というものの重みがあったことは言うまでもありません。
皐月賞、日本ダービーを勝った馬は、菊花賞に駒を進めて、3冠馬を目指す。
海外からは別の見解もあるのかもしれませんが、日本のホースマンにとって、この決断は常識なのです。
3-2:長距離戦不要論をどう考えるか?
そのコントレイルは、不向きな3000メートル戦を克服して、3冠馬となりました。
皐月賞の2000メートル、日本ダービーの2400メートル、そして菊花賞の3000メートルと、それぞれ求められる適性が異なる3つのレースを、同じ年に、同じ馬で勝利する。
特に最後の菊花賞は、馬によっては調教の方法や、騎手の乗り方に、様々な工夫が必要となります。
古馬なら適性に合ったレースを選択する、という考え方もありますが、一生に一度しかない牡馬クラシック戦線なのですから、適性外のレースにも、工夫を凝らして挑戦する、という考え方もあっていいのではないでしょうか。
確かに、繁殖という視点で考えた時、3000メートルという距離は、その評価をする上で、あまり意味がないかもしれません。
長距離不要論が叫ばれる昨今だからこそ、馬券を買ってレースを見る側にとっては、魅力的でもあるのです。
まとめ
最後の1冠だからこそ、価値があるレースなのです。
3冠を勝つことで、歴史にその名を刻む馬が現れるからこそ、価値があるレースでもあるのです。
3000メートル戦という、長距離戦だからこそ、面白いレースだったりもするのです。
皐月賞にも、日本ダービーにもない、独特の魅力を持つ菊花賞というレースを、毎年楽しみにしているファンは今も少なくありません。