春は京都競馬場、秋は東京競馬場で行われる天皇賞ですが、毎年10月下旬から11月上旬に行われる天皇賞・秋に関しては、1985年に大きな転換点を迎えました。
それまでは、春と同じ3200メートル戦だったのですが、この年から2000メートルに距離が短縮され、中距離戦に適性を持つ馬の活躍が目立つようになります。
そんな天皇賞・秋の過去から、名勝負と呼ばれたレースや、波乱となったレースのドラマをご紹介します。
1:天皇賞・秋での名馬・名勝負物語
2000メートルに距離が短縮されたことにより、様々なカテゴリーで戦っていた馬たちが天皇賞に参戦することになりました。
距離が短縮された直後は様々な議論もありましたが、2000メートル戦だからこそ活躍できた名馬、見ることができた名勝負がたくさんあります。
そんな名馬・名勝負物語をご紹介しましょう。
1-1:1999年優勝馬スペシャルウィークが人気を落としていた理由
この年の優勝馬スペシャルウィークは、前年のダービー馬であり、その日本ダービーを含め、G1を2勝している実績馬でもありました。
鞍上も名手・武豊騎手で変わりはありません。
ところが、この時は4番人気という低評価でした。
評価が低かった理由は、前走の京都大賞典にありました。
単勝オッズ1.8倍で1番人気という評価を大きく裏切り、7着に敗れてしまったのです。
休養明けであり、別定59キロを背負っていたことは確かですが、まさか掲示板に載ることさえできないとは、当時は誰も想像できませんでした。
さらに、レース前の追い切りでも、本来の動きではないという、スポーツ紙等の報道もあり、多くの競馬ファンはスペシャルウィークのコンディションを疑うことになったのです。
しかし、スペシャルウィークはそんな周囲の喧騒をあざ笑うかのように、後方から鋭い末脚を繰り出して追い込みます。
そしてゴール手前でステイゴールドをクビ差で差し切り、あっさりとG1・3勝目を飾ってみせたのです。
あの追い切りの動きが悪い、という報道は何だったのだろう?
そもそも京都大賞典での凡走は何だったのだろう?
その答えは、次走のジャパンカップにありました。
この時も、スペシャルウィークの追い切りはあまり冴えないものだったのです。
それでもジャパンカップを勝利したスペシャルウィークに、多くの競馬ファンはこの馬特有の調教パターンがあることを理解したのでした。
1-2:人馬で不利を克服!!~2000年優勝馬テイエムオペラオー~
この年、日本競馬界には絶対的なエースがいました。
2月の京都記念、3月の阪神大賞典、4月の天皇賞・春、6月の宝塚記念、そして10月の京都大賞典と5連勝を挙げたテイエムオペラオーは、この時点で早くも年度代表馬ではないか、と囁かれる存在だったのです。
しかしこの天皇賞・秋で、穴党と呼ばれる評論家やファンは、テイエムオペラオーについて、2つの不安材料を指摘します。
ひとつは、不利とされる外枠を引いてしまった点、そして鞍上の和田竜二騎手が、デビュー以来、東京競馬場でも勝ち星がなかった点、この2点をどう克服するのかが、このレースの大きなポイントでした。
それでも、和田竜二騎手とテイエムオペラオーにとって、この2点は問題になるような話では全くありませんでした。
最後の直線で馬群から抜け出すと、後続に2馬身1/2差をつけて快勝し、1番人気の評価に応えたのです。
果たしてこの時、テイエムオペラオーは2つの不安材料を克服したから勝利できたのか?
そもそも全く問題なかったのか?
多くの競馬ファンには、後者であるように見えました。
そして、テイエムオペラオーが主役の座を守り続けることに異論を唱える人を完全に黙らせてしまうことに成功したのでした。
1-3:牝馬同士が火花を散らした日!!~2008年優勝馬ウオッカ~
天皇賞・秋というレースは、牝馬がなかなか活躍できない時期があったレースでした。
エアグルーヴが1997年にこのレースを勝利しますが、牝馬が勝つのは2000メートル戦になってから、初めてのことでした。その前に牝馬が勝ったのは3200メートル戦だった時代、1980年にプリティキャストまで遡らなければなりません。
しかし、その後は2005年にヘヴンリーロマンスが勝利するなどしたことにより、天皇賞・秋において「牝馬は勝てない」という感覚は、競馬ファンの間から薄れていきます。
そして、この2008年は牝馬2頭によるワン・ツー決着となりました。
しかも、レースは日本競馬史に残る、壮絶なものだったのです。
前年の桜花賞と秋華賞を勝っているダイワスカーレットが逃げて、レースを引っ張る展開でした。
前半の1000メートル通過は58秒7。
明らかにハイペースでした。
しかし、最後の直線に入ってもダイワスカーレットの脚色はなかなか衰えません。
そのダイワスカーレットに、前年の日本ダービーで牡馬を相手に勝利したウオッカが迫ります。
2頭は馬体を並べて叩き合い、そのままゴール板を通過したのです。
勝ちタイムは、1分57秒2というレコードタイムでした。
多くのファンはタイムにも驚かされましたが、2頭による写真判定の長さにも驚かされました。
牝馬2頭による大接戦、大激戦だったのです。
写真判定に要した時間は13分。
その後に行われる最終レースの発走時刻が繰り下げられるほどの事態でした。
結果はハナ差でウオッカの勝利となったのですが、わずか2センチ差だったと言われています。
ウオッカとダイワスカーレットは同じ2004年産まれでした。
これまでにも何度か直接対決を繰り返すライバル同士でしたが、その中でも名勝負として後々まで語られるレースとなっています。
2:波乱の秋に競馬ファンも驚愕
天皇賞・秋は、春と比較すると、波乱が多いことで知られています。
その波乱の内容も、高配当が出現する、というよりも、事件が起きた、と表現する方がふさわしいかもしれません。
そんな波乱の天皇賞・秋を振り返ってみたいと思います。
2-1:1990年優勝馬プレクラスニーは大事件の末、勝者に
この日の東京競馬場は大雨で、馬場状態は不良と発表されていました。
不良馬場も、レースを大きく左右する材料だったのかもしれません。
レースは、春の覇者メジロマックイーンが最後の直線で抜け出し、後続に6馬身差をつけてゴール板を通過します。
その圧勝ぶりは、東京競馬場内から溜息が出るほどのものでした。
しかし、電光掲示板に青ランプと共に審議中を意味する「審」の文字が表示されます。
テレビの競馬中継では、何人かの騎手が怒りの表情で後検量室に引き揚げてきたことが伝えられていました。
審議の結果、勝者として名前が掲げられたのはメジロマックイーンではなく、6馬身後ろにいたプレクラスニーの方でした。
2コーナーで他馬の進路を妨害したとして、メジロマックイーンは18着に降着となってしまったのでした。
繰り上がりで勝利したプレクラスニーの手綱を取っていた江田照男騎手は、19歳8ヶ月での勝利という、史上最年少での天皇賞優勝騎手となりました。
しかし、1位入線馬に大差をつけられていたのですから、この繰り上がりでの勝利に、インタビューを受ける江田照男騎手に笑顔は見られませんでした。
1位入線馬が降着となったのは、日本のG1レースでは初めてのことでした。
2-2:G1の厳しさを教えられた瞬間~1992年優勝馬レッツゴーターキン~
1番人気は、前年の皐月賞とダービーを勝利している2冠馬トウカイテイオーでした。
デビューから皐月賞、日本ダービー、そして2走前の大阪杯まで無傷の7連勝という快進撃を続けていたトウカイテイオーでしたが、前走の天皇賞・春で5着に敗れ、初黒星を喫します。
その後、軽い骨折が判明し、更に完治した後もコンディション不良で前哨戦を使うことが出来ず、トウカイテイオーは休養明けでこの天皇賞・秋に出走することになってしまいました。
多くのファンはそれでもトウカイテイオーを1番人気に支持しますが、G1レースはそんな状態で勝利できるほど、甘いものではありません。
最後の直線で馬群から抜け出すことができず、もがいているトウカイテイオーを尻目に、外から11番人気のレッツゴーターキンと5番人気のムービースターが追い込みます。
そして軍配は、1馬身1/2差でレッツゴーターキンに上がりました。
トウカイテイオーは7着に敗れ、初めて掲示板を外す結果となったのです。
実績馬と言えども、ベストコンディションで挑むことができないとG1を勝つことはできないことを、多くの競馬関係者、そしてファンが再認識させられたレースでした。
2-3:大舞台で発生した悲劇~1998年オフサイドトラップ~
日本のG1レースにおいて、これほどまで勝ち馬がレース後も注目されなかったケースは珍しいのではないでしょうか。
この年の優勝馬はオフサイドトラップでした。
ところが、そのオフサイドトラップが先頭でゴール板を駆け抜けた後も、多くのファンは4コーナー付近を見ていたのです。
その視線の先には、アクシデントに見舞われた1番人気馬がいました。
単勝オッズは1.2倍。
多くの人は、サイレンススズカが負けるはずがない、と思っていたのです。
次元の違うスピードで逃げ、後続に影を踏ませることなく、逃げ切り勝ちというレースを繰り返したサイレンススズカは、前走の毎日王冠まで6連勝中でした。
2走前には宝塚記念に優勝し、初めてのG1タイトルも手にしていました。
この日も絶好枠、1枠1番からハナに立ち、そのまま後続を大きく離して逃げる展開となりました。
その姿を見て、誰もが「これでサイレンススズカが負けるはずがない」と思ったに違いありません。
しかし、その負けるはずがないサイレンススズカが4コーナー手前で故障し、そのままスローダウン。
そして、競走中止を余儀なくされたのです。
サイレンススズカは左前脚手根骨粉砕骨折で予後不良と診断され、安楽死の処置が取られました。
全く想定外の事態でした。
最悪の結果となってしまったのです。
勝負事にタラレバはありませんが、もしサイレンススズカが故障していなかったら、そのまま圧勝していたのではないか、と当時を知るファンの多くは少なくありません。
3:天皇賞・秋の傾向
3200メートル戦から2000メートル戦へ。
この1985年の変更が、このレースの傾向を大きく変えてしまいました。
波乱が多くなってしまった原因も、この距離短縮が無関係ではありません。
距離短縮が変えてしまった、このレースの傾向について、詳しく説明しましょう。
3-1:枠順が発表されないと馬券検討ができないレース
天皇賞・秋が行われる、東京競馬場の芝2000メートルという舞台ですが、スタート地点は1コーナー奥のポケット地点となっています。
スタート地点から2コーナーまでは、ほぼ真っすぐとなりますが、距離が短く、スタートするとすぐ左カーブが待ち受けています。
その為、外枠を引いた馬は不利だ、と言われています。
1991年に発生したメジロマックイーンの降着も、7枠13番という外枠が原因だったのでは、と言われています。
不良馬場の中、外枠から逃げ馬の直後というポジションを確保する為には、強引にでも内側に切り込んでいかなければなりません。
その結果、落馬寸前の不利を受ける人馬が現れ、走行妨害と判断されてしまうことになってしまったのです。
このメジロマックイーンの降着により、東京競馬場の芝2000メートル戦において外枠は不利、というのは、多くの競馬ファンにとって常識となりました。
その為、天皇賞・秋の枠順が確定すると、有力馬が外枠を引いていないか確認するのが、このレースにおける恒例行事のようになったのです。
3-2:春秋連覇は難しい
2000メートル戦になって以降の天皇賞・秋では、その前に安田記念を勝っていたり、次にマイルチャンピオンシップに出走したり、という馬が目立ちます。
マイル戦を得意とする馬の中には、この2000メートルという距離は守備範囲だ、という馬も存在します。
3200メートル戦のままだったら、考えられない傾向ではないでしょうか。
その為、春秋の天皇賞制覇は容易なことではありません。
天皇賞・秋が2000メートル戦となって以降、同じ年に春秋の天皇賞を制した馬は、1988年のタマモクロス、1999年のスペシャルウィーク、2000年のテイエムオペラオー、2007年のメイショウサムソン、2017年のキタサンブラックと、計5頭いますので、決して不可能ではありません。
しかし、秋が2000メートル戦になって30年以上経つのに、春秋連覇はまだ5頭しかいない、と考えた方が良さそうです。
まとめ
年に2回ある天皇賞ですが、春と秋で走る距離が異なる、という点が、東京競馬場で行われる天皇賞・秋の方を面白くしているように思えます。
そして、多くのファンにとって想定外の決着となる理由と、距離の違いとが密接に関連する点も、非常に興味深いのではないでしょうか。